沖縄県内の鉄道は明治時代から民間資本での建設が計画されてきたが、資金不足などで計画倒れになってきた。民間敷設が困難な中で県による敷設が模索され、1914年(大正3年)に機関車が走る県軽便鉄道(後に県鉄道)の那覇―与那原線が開通。民間会社の沖縄電気軌道による電車も同じ年に走り始めた。
軽便鉄道の敷設は、国が地方の鉄道網整備を目的に法規制を緩和した軽便鉄道法を制定したことで実現に拍車がかかった。那覇―与那原線に次いで那覇―糸満、那覇―嘉手納も開通し、営業距離は47・8キロ。本来は「ケイベン」と読むが、県民には「ケービン」「ケービングヮー」の呼称で親しまれた。
那覇―与那原間の運賃は2等で18銭。定期もあり、通勤、通学の足としても利用された。高めの価格設定ということで無賃乗車もあったという。高学年の生徒が乗ると優先して席に座ることになっていたと、学生だった住民は語っている。
当時の与那原町は、沖縄本島のやんばるからの船が入港する一大物流拠点。通常は機関車に、3両ほどの客車のほか、後ろに貨車も接続され、物流網としても機能していた。
それが沖縄戦に入ると軍事物資の輸送路として活用されることになる。通常列車の合間に兵員や軍事補給物資を輸送する臨時列車が走った。軍事物資を載せた車両が爆発し、犠牲者を出す事故も起こった。
1944年10月10日の大空襲「10・10空襲」で那覇駅が焼失。唯一のコンクリート製の駅舎だった与那原駅も損壊した。嘉手納線は米軍の沖縄本島上陸を目前に控えた1945年3月23日ごろ、与那原、糸満線が28日ごろを最後に運行を停止した。
15歳で沖縄戦を体験した具志堅貞子さん(86)=与那原町=は「毎週ケービン(軽便鉄道)に乗るのが一番の楽しみだった。那覇まで行って買い物をした。終戦後、ぼろぼろに崩れた与那原駅を見たときは何も言葉が出なかった」と小さな声で語った。
戦後、沖縄を占領した米軍政府は、新たな輸送手段として鉄道復興を計画していた。
志喜屋孝信・沖縄民政府知事からの要請に対し、ウィリアム・H・クレイグ軍政府副長官が「沖縄本島の運輸機関の欠乏は深刻で、軍政府も鉄道再建に必要な資材を獲得する特別な努力を続けている」と建設へ前向きな姿勢を示していた。しかし米側が鉄道を再建することはなかった。 琉球新報より掲載
ほうほう、戦争で破壊されちゃったんですね・・・
ちゃんと整備してくれたらよかったのに(-。-;)
ともあれ、地道に渋滞解消に向け整備していきましょう
ということで、空港から首里までだったモノレールが隣の浦添市までやっと伸びました。この記事を書いてる次の日から運航開始です(^_-)-☆
新路線はこんな感じです
浦添市には観光的な名所があるわけではないのですが、住民が多い街なので本当に県民のための足になりますね
将来的には北部の名護まで伸ばしたいという計画なので、ひょっとしたら生きてる間に完成するかもです(^_^;)